瑛介の母の後ろ盾がある以上、健司が何を恐れることがあるだろうか?彼はこうして堂々と、瑛介に薬を飲ませるべく行動を起こした。しかも、ただ薬を飲むよう促すだけで給料が倍になるのだ。これ以上うまい話があるだろうか?「薬を飲んでいただけないと、後でお母様から電話が来たときに困るんですよ」その言葉を言ったと同時に、健司は瑛介の冷たい視線を感じた。一瞬で緊張が走った。この時になって、彼はようやく気付いた。たとえ瑛介の母の後ろ盾があったとしても、あまりにも調子に乗りすぎれば、結局損をするのは自分自身だけだ。だが次の瞬間、瑛介の行動が彼を驚かせた。瑛介は彼の目の前で薬を飲み、さらに用意された白湯まで飲み干した。そして、飲み終えたカップをテーブルに置くとき、重々しい音を立てた。「これでいいだろう?」健司はすぐに我に返り、深々と頭を下げながら満足の意を伝え、急いで部屋を出て行った。彼が去った後、瑛介はふと思い出したようにスマホを取り出し、すでに配信が終わった画面を見つめた。次の配信がいつになるか分からない。できれば早く配信してほしい。「配信終わった?」弥生は荷物を袋に詰め終わったところで、二人の子供たちがスマホを持って部屋に入ってくるのを見た。「うん」陽平は素直にスマホを彼女に手渡した。「視聴者のみんなに、しばらく配信を休むって伝えた?」「うん、もう伝えたよ、ママ」「それならよかった。じゃあ、ここ数日でゆっくり片付けましょう。急がなくていいから、片付けが終わったら帰国するよ」陽平は何か思い出したように、突然尋ねた。「ママ、おじいちゃんには帰国のことを伝えた?」その言葉に、弥生はハッとし、思い出したように言った。「そうか、最近忙しくてすっかり忘れてたわ。じゃあ、今夜おじいちゃんの家に行きましょう」「うん!」5年前、弥生が国外に移住したばかりの頃、父の会社はまだ大した成果を上げておらず、むしろ借金を抱えていた。弥生はわずかに残っていた貯金を取り出し、その穴を埋めた。しかし、父はそれを知ると、彼女を厳しく叱った。元々、父は他人の助けを受け入れることを嫌っていたが、弥生が瑛介と離婚して、さらに妊娠していると知ったとき、態度を変えた。自力でゼロから始めるのをやめ、人脈を活用するよう
そして何よりも考慮しなければいけないことは、父親が長い間一人ぼっちであったことだ。やっと、今は心から相手に惹かれ、相手からも惹かれているのだから、無理に二人を引き離すのはあまりにも残酷だと弥生は感じていた。その女性もとても素直で積極的だった。弥生が二人の関係を知った後、彼女は密かに弥生の家を訪ねて、誠意を込めてこう伝えた。「洋平から聞いているから、あなたの家庭の状況は理解しているよ。私が洋平と一緒にいるのは、決して何かを狙っているではないからね。でも、もし私のことを信用できないであれば、霧島家のものを一切手にしないことを誓いてもいい。しかし、この約束は私たち二人だけが知るもので、他の人には知られていけない」「わかりました、じゃあそうしましょう」そこで弥生は、弘次の会社の弁護士チームに頼んで契約書を作成し、その女性に署名を求めた。しかし、その女性は契約書に目を通すことなく、ペンを持って署名しようとした。その様子を見て、弥生は彼女の手を止めた。「ちょっと、内容を確認せずに署名するのは......私に騙されるかもしれないとは思わないのですか?」女性は笑顔を浮かべながら答えた。「洋平の人柄を見ると、あなたも私を害するようなことはしないと思うから」彼女の言葉に、弥生は感心せざるを得なかった。そして、父親を傷つけたくない気持ちもあったため、最終的に契約書に署名させることはを止めた。彼女が契約書を片付けると、女性は少し慌てた様子で尋ねた。「えっ、どうして急に契約を取りやめるの?私のことが気に入らないの?」「いいえ、そうではありません」弥生は笑みを浮かべて答えた。「もし今後も父と一緒にいるのなら、これからは私のことを『弥生』と呼んでください。あと、次に契約書に署名する時は、きちんと内容を確認してからサインしてください。何処かで今日みたいなことをしたら、騙される可能性がありますから」契約書を用意させた理由は、娘としての少しばかりの自己中心的な気持ちからだった。自分はシングルマザーで、父親以外に親族はいない。だからこそ、父が一緒に過ごす相手には、それなりに試してみたくなるのだ。二人が結婚した後、弥生は父親と同居しない選択をした。彼女は一戸建てを購入し、自分と子供の三人で住むことにした。それで十分だった。
冨美子はひなのをしっかり抱きしめた後、陽平の頬を軽くつまんで、彼をおろそかにしていないことを確認してから、ようやく弥生に向いて言った。「風が強いから、先に中に入りましょう」そこで、弥生は冨美子と一緒に家の中へ入った。冨美子は歩きながら話しかけてきた。「あなたのお父さん、ちょうどお風呂に行ったところなのよ。食後すぐに入らないようにと言ったのに、全然聞いてくれないの」冨美子の温かい愚痴に、弥生は微笑みが浮かんだ。「いつも父の面倒を見てくださって、申し訳ありません」その言葉に、冨美子はすぐさま洋平の擁護を始めた。「そんなことないわよ。むしろ、洋平は何でも自分でやっているし、逆に私が世話されている側なのよ」「お互いに支え合っているのは何よりです」冨美子は振り返り、笑いながら弥生を見ていた。そしてひなのを下ろしながら言った。「それじゃあ、お父さんに声をかけて、早くお風呂を終えるように伝えてくるわね」「大丈夫ですよ。今日は急いで帰るわけじゃないので、ゆっくりしてもらってください」その言葉に冨美子の目が輝いた。「今夜はここに泊まるの?」弥生は子供たちの方に顔を向けた。「どう?おばあさんが泊まるかどうか聞いてるけど、どうする?」「泊まりたい」ひなのはすぐに冨美子の足に抱きつき、声を上げた。「今夜はお婆ちゃんと一緒に寝たい。最後だから」冨美子は最初喜んでいたが、「最後」という言葉を聞いた瞬間、その場で固まってしまった。「最後?どういうこと?」「ひなのちゃん、誰がそんなこと教えたの?そんなこと言っちゃダメでしょ?」その言葉に、ひなのは首を傾げた。「ママ、ごめんね」彼女の純真な表情に、弥生は彼女の鼻を指で軽く突きながら答えた。「帰国前の最後の夜ってことよ」「分かった!」そう教えられたひなのはすぐにもう一度言った。「お婆ちゃん、帰国前の最後の夜です」その説明を聞いて、冨美子はすべてを理解したようだった。「帰国するのね?いつ頃?」「ええ、たぶん今週中には......」「どうしていきなり帰国するの?洋平からそんな話は聞いていないわ」「今日ここに来たのは、そのことをお伝えするためでもあります」その言葉に、冨美子はそれ以上何も言わず、ただ静かに頷いた。‐
弥生は父親が全てを自分に残してくれることを期待していたわけではなかった。しかし、今こうして「会社は全部お前のものだ」と言われると、心の中には感動があふれた。「だから、国内に戻るのはやめて、ここに残って父さんの会社を手伝いなさい」感動しつつも、弥生は軽く眉を上げて答えた。「ごめんなさい」洋平はその答えに少し困惑した様子で尋ねた。「どうして無理なんだ?お前は今、二人の子供を抱えながら会社を立ち上げるつもりなんだろう。それじゃあ、とても大変だろう」「それは分かってる。でも、それなりのやりがいがあるの。お父さん、私は会社を立ち上げたいの」彼女は自分の力で二人の子供により良い生活をさせてあげたいと思っていた。他の人がどう考えているかは分からないが、彼女自身は、母親である以上、できる限り、子供たちのために最善を尽くすべきだと考えていた。そんな事を考えながら、弥生は机の周りを回り込んで父親のそばに行き、まるで幼い頃のように親しげに父の腕にしがみついた。「それに、何よりも大事なのは、お父さんの会社が順調で、私にとって最良の後ろ盾であり続けるってことよ。外で頑張って失敗しても、お父さんが私を支えてくれるって分かってるから、全然怖くないの」この言葉は、洋平の心に深く響いた。父親として、自分は娘にとって確固たる後ろ盾であり、彼女が外でどんな挑戦をしようとも、自分が彼女にとっての避難所であると改めて感じた。彼女がこの選択肢を持っている限り、失敗を恐れることはないのだ。しばらくして、洋平はため息をつきながら言った。「だが、会社を立ち上げるのは本当に大変なことだぞ」その答えを待ち続けていた弥生は、ようやく嬉しそうに笑った。「お父さん、それは分かっているよ」子供を持つと、人は強くなると実感していた。それまでは怖かったこと、やりたくなかったことも、母親になった今では何でも乗り越えられる。「とにかく、覚えておきなさい。父さんの娘はお前一人しかいないんだ。困ったことがあったら、いつでも連絡しなさい」「分かってる、お父さん、ありがとう」数日後、空港で。弥生と子供たちは帰国する前に、洋平と冨美子は別れを告げた。「気を付けてね」「はい」「二人の子供の面倒を見るのは大変だから。お手伝いさんを雇うのが一番いい
由奈はそれ以上弥生をからかうことはせず、彼女と軽く抱き合って言った。「着いたら連絡してね。いつかあなたのところに会いに行くから」「もう、何度も聞いたから分かっているよ」その時、冨美子に抱かれていたひなのが突然口を開いた。「ママ、お手洗いに行きたい」「私が連れて行くわね」「大丈夫です。私が連れて行きます」弥生は荷物を友作に託し、冨美子からひなのを受け取った。そして息子の陽平に目を向けて尋ねた。「陽平ちゃんも行く?」陽平は少し考えた後、頷いた。「それじゃあ、二人を連れてお手洗いに行ってくるね」由奈はすかさず言った。「分かった。じゃあ私たちは先に保安検査場に行くね」「うん」洋平と冨美子、そして由奈の3人は、一緒に列に並び、弥生たち母子3人分の場所を確保しに行った。弥生は二人の子供を連れて空港のお手洗いを探した。しかし、陽平は男の子であるため、弥生はひなのだけを女性用のトイレに連れて行って、外で待つことにした。そして二人に細かく指示を与えた。「分からないことがあったら、中にある人に聞いてね。終わったら外で手を洗って。ママはここで待ってるから、大丈夫よね?」二人は揃って素直に頷き、それぞれトイレに向かった。ひなのがトイレに入ると、ある声が聞こえてきた。「可愛い!」その褒め言葉に、弥生は思わず唇がほころんだ。空港のトイレは広く綺麗だった。定期的に清掃員が入って清掃を行っているため、どこも清潔だった。一方、陽平はトイレの入り口に向かう途中、黒いスーツを着た背の高い男性が廊下で電話をしているのを見つけた。その男性は横顔が際立っており、鋭い顎のラインと冷たい眼差し、引き締まった口元が彼の厳格さを際立たせていた。電話の相手が何かを言ったのだろう。男性は鼻で笑うような冷たい声を漏らした。陽平は瞬きをしながら歩みを進めて、トイレの入り口の大きな扉に手をかけた。「よいしょ......」小さな体では扉を押し開けるのが難しく、陽平は全力を込めて力を振り絞った。「ギギギギギ......」扉がきしむ音が、静かな廊下に響き渡った。背の高い瑛介は電話をしていたにも関わらず、その音に眉をひそめて、音のする方向に視線を向けた。しかし、誰も見えない。彼が視線をさらに下に移すと、よ
その少し後、瑛介はふいに顔を下げた。しかし、小さな子供はもう行ってしまっていた。瑛介にお礼を言った後、彼はすぐにトイレの中に入ったので、今はどこにいるのか分からない。瑛介は薄い唇を引き結び、眉を少しひそめながらその場に立ち尽くしていた。電話の向こうで話し続けている声も、彼にはまったく聞こえていなかった。錯覚だったのか?それとも、あの二人の子供が配信をしばらく休むと発表したせいで、つい考えすぎてしまって、いまその子供たちの声を思い出してしまったのか。彼の脳裏には、配信で「陽平」と呼ばれていたあの男の子の声が浮かんでいた。「この件についてなんですが、私としては他にいくつか提案がこざいまして、改めてお時間をいただければ......」相手が話している途中で、瑛介は突然冷たい声で遮った。「さっき、何か音が聞こえなかったか?」いきなり話を遮られた通話相手は、一瞬何が起きたのか分からず、戸惑った様子だった。「え?何ですか?」「こちらから何か聞こえなかったか?」もしあれが幻聴でなければ、電話越しでもあの「ありがとう」という声が聞こえていたはずだ。電話の向こうの協力相手は、一瞬瑛介の言葉の意図を理解できなかった。しかし、瑛介が騒音を嫌う人物だという話を聞いたことがあったため、返事に慎重になった。確かに、さっき何か小さな音が聞こえた気がしたが、それを瑛介に直接指摘するのは問題にならないだろうか?そう考えた末、相手は何もなかったかのように答えた。「特に音は聞こえなかったように思いますが、そちらで何か問題がありましたか?」その慎重な答えに、瑛介は扉に置いた自分の手を見下ろした。やはり錯覚だったのか?その時、健司が息を切らせて駆け込んできた。「社長、資料を取ってきました」瑛介は冷たい視線を一瞬彼に向けた。その視線を受けた健司は、びっくりして唇を引き結んだ。しばらく沈黙が続いた後、健司は提案した。「それなら先に保安検査を通りませんか?中にはカフェもありますし、ここで話を続けるのは少し不便です」その言葉に、電話の向こうの協力相手もすぐに話を合わせた。「そうですね。ご都合が悪ければ、少しお待ちしますので、まずは保安検査を通ってください」一瞬考えた後、瑛介は軽く頷き、電話を切った。そして暗
もし見間違いでなければ、さっき瑛介はトイレから出てきたのでは?そうだったら......まずい!「弥生!」由奈は急いでトイレの方向に向かって駆け出した。さっき列に並んでいるときに、あることに気づいたのだ。それは、陽平は男の子であるため、弥生が彼を女トイレに連れて行くはずはなく、同時に彼女自身が男トイレに入ることもできないということだ。この状況は少し厄介なため、トイレの外で何か助けることができるかもしれないと思い、急いで向かったのだった。だが、まさかそこで瑛介と出くわすとは思わなかった。瑛介に会うのは本当に久しぶりのことだ。最後に彼を見たのは遙か5年前のことだろうか。今の瑛介は、すっかり男性らしい落ち着きのスタイルを備えて、以前よりもずっとおとなしくなっていた。穏やかさを漂わせつつも、その気迫と冷たさは以前にも増して強まっているように感じた。彼が持つ鋭い目鼻立ちはさらに洗練されて、その圧倒的な存在感が由奈を引きつけた。遠くから見ているだけでも、彼の冷たさを感じ取ることができる。確かに、格好いいな。だから弥生がかつて彼に夢中になったのも当然だった。この5年間、ずっと心の中で彼を思い続けてきたのだろう。もし瑛介が自分の親友の好きな相手ではなかったなら、由奈自身も彼に惹かれていたかもしれない。ようやくトイレの前にたどり着いた由奈は、弥生がひなのを連れてトイレから出てくるのを見つけた。彼女は急いで駆け寄り、息を切らしながら声をかけた。「弥生!」「由奈?どうしてここに?」弥生は彼女を見て、少し驚いたようだった。急いできた上に緊張していたため、由奈は息も絶え絶えで答えた。「二人の子供を連れるのは大変だから、何か手助けできるかと思って。でも、どう?大丈夫?」そう言いながら、彼女は弥生の頭の先からつま先まで注意深く見渡し、さらには彼女の周りを2周して確認した。弥生はそんな彼女の様子に、思わず困惑した表情を浮かべた。「陽平はどこ?」弥生はひなのを由奈に任せ、男の子用トイレの外で陽平を待つことにした。さっき、ひなのが急いで彼女を呼びに来たため、一瞬だけトイレに入ったものの、それほど時間は経っていないので、陽平はまだ出てきていないはずだ。予想通り、1分ほど待つと、小さな姿がトイレから
弥生が知らないのであれば、彼女が言う必要もない。すでに過去の縁だったのだ。それに、弥生はもっと素晴らしい男性にふさわしいに違いない。そう考えると、由奈は気持ちを落ち着かせることができ、笑顔を浮かべながら冗談を言った。「ええっと、犬を連れたりとか、乞食したりとかしている人見かけた?」「見なかったよ......ところで、あなた大丈夫なの?」弥生は呆れたように答えた。「空港は犬を連れて入れないし、乞食が入るはずもないでしょ」「そうね、確かにそうだわ」由奈はため息をつき、芝居がかった口調で続けた。「ああ、あなたたちがいなくなると悲しすぎて、ちょっとおかしくなったのかも。やっぱりここに留まったほうがいいんじゃない?」弥生は、彼女の冗談にもう構う気もなく、二人の子供の服を整えていた。すると、陽平が話しかけてきた。「ママ、さっきトイレでとってもかっこいいおじさんに会ったよ。僕のために扉を開けてくれたんだ」弥生は、その「おじさん」が誰なのかを知らなかったので、ただ優しく言った。「そうなの。じゃあ、ちゃんとお礼は言ったの?」「言ったよ、ママ」「偉いわね」弥生は微笑み、彼の額にキスをした。陽平の目には、瞬時に満足そうな輝きで満たされた。それを見たひなのはすぐさま母親のそばに駆け寄り、甘えた声で言った。「ママ、私もチューしてほしい!」由奈はそばでこの母子三人のやり取りを見守り、胸の中で羨ましい気持ちが湧き上がった。もし可能なら、私も弥生みたいに、子供だけいて男がいない生活を送りたい。準備が整うと、一同は保安検査のエリアへ戻ることにした。「列に並ぼうと思ったけど、友作が言うには、あなたたちのチケットはファーストクラスだから、優先通路を使えるらしいの。すっかり忘れてたわ」「そっか、分かったわ」保安検査を通過する弥生たちを、由奈や家族たちは少し離れた場所から見守っていた。検査が終わり、弥生たちが通過すると、由奈は感慨深げに手を振りながら言った。「待っててね。また会いに行くから!」弥生たちが去っていくのを見送りながら、彼女はふとある考えが頭をよぎった。そしてその笑顔は徐々に曇り始めた。やばい!もしかして、さっきトイレで見かけた瑛介も、帰国するつもりなのでは?そして、もし彼らが同じ便
瑛介は子供たちを家に連れて帰ったあと、わざわざシェフを呼んで美味しい料理を作ってもらい、さらにおもちゃも用意させていた。まだ二人の好みがはっきり分からなかったのと、自分でおもちゃを買ったことが一度もなかったこともあって、とにかく手当たり次第にいろいろな種類を揃えたのだった。二人の子供たちはそんな光景を見たことがなく、部屋に入った瞬間、完全に呆気に取られていた。そして二人は同時に瑛介の方へ顔を向けた。ひなのが小さな声で尋ねた。「おじさん、これ全部、ひなのとお兄ちゃんのためのなの?」「うん」瑛介はうなずいた。「君たちのパパになりたいなら、それなりに頑張らなきゃな。これはほんの始まりだよ。さ、気に入ったものがあるか見ておいで」そう言いながら、大きな手で二人の背中を優しく押し、部屋の中へと送り出した。部屋に入った二人は顔を見合わせ、ひなのが小声で陽平に尋ねた。「お兄ちゃん、これ見てもいいのかな?」陽平は、ひなのがもう気持ちを抑えきれていないことを分かっていた。いや、実は自分もこのおもちゃの山を見て心が躍っていた。しばらく考えてから、彼はこう言った。「見るだけにしよう。なるべく触らないように」「触らないの?」ひなのは少し混乱した表情を見せた。「でも、おじさんが買ってくれたんでしょ?」「確かにそうだけど、おじさんはまだ僕たちのパパじゃないし......」「でも......」目の前にある素敵なおもちゃの数々を、ただ眺めるだけなんて、あまりにもつらすぎる。ひなのはぷくっと口を尖らせ、ついに陽平の言葉を無視して、おもちゃの一つに手を伸ばしてしまった。陽平が止めようとしたときにはもう遅く、ひなのの手には飛行機の模型が握られていた。「お兄ちゃん、見て!」陽平は小さく鼻をしかめて何か言おうとしたが、そこへ瑛介が近づいてきたため、言葉を呑み込んだ。「それ、気に入ったの?」瑛介はひなのの前にしゃがみ、彼女の手にある飛行機模型を見つめた。まさかの選択だった。女の子用のおもちゃとして、ぬいぐるみや人形もたくさん用意させたのに、彼の娘が最初に手に取ったのは、まさかの飛行機模型だった。案の定、瑛介の質問に対して、ひなのは力強くうなずいた。「うん!ひなのの夢は、パイロットになることなの!」
とにかく、もし彼が子供を奪おうとするなら、弥生は絶対にそれを許さないつもりだった。退勤間際、弥生のスマホに一通のメッセージが届いた。送信者は、ラインに登録されている「寂しい夜」だった。「今日は会社に特に大事な用事もなかったから、早退して学校に行ってきたよ。子供たちはもう家に連れて帰ってる。仕事終わったら、直接うちに来ていいよ」このメッセージを見た瞬間、弥生は思わず立ち上がった。その表情には、明らかな驚きと怒りが浮かんでいた。だがすぐに我に返り、すぐさま返信した。「そんなこと、もうしないで」「なんで?」「君が私の子供を自宅に連れて行くことに同意した覚えはない」相手からの返信はしばらくなかったが、しばらくしてようやくメッセージが届いた。「弥生、ひなのちゃんと陽平くんは、僕の子供でもある」「そう言われなくても分かってる。でも、私が育てたのよ。誰の子かなんて、私が一番よく分かってる」「じゃあ、一度親子鑑定でもしてみるか?」「とにかく、お願いだから子供たちを勝手に連れ出さないで」このメッセージを送ってから、相手は長い間返信を寄こさなかった。弥生は眉をわずかにひそめた。もしかして、彼女の言葉に納得して子供たちを連れて行くのをやめたのだろうか?だが、どう考えてもおかしい。瑛介は、そんなに簡単に引き下がる男ではない。不安が募る中、まだ退勤時間まで15分残っていたが、弥生はもう我慢できず、そのまま荷物をまとめて早退することに決めた。荷物をまとめながら、弥生は心の中で瑛介を罵っていた。この男のせいで、最近はずっと早退ばかりしている。まだ荷物をまとめ終わらないうちに、スマホが再び震えた。ついに、瑛介から返信が届いた。「子供は車に乗ってる。今、家に帰る途中」このクソ野郎!弥生は怒りに震えながら、電話をかけて文句を言おうとしたその瞬間、相手からまた一通のメッセージが届いた。「電話するなら、感情を抑えて。子供たちが一緒にいるから」このメッセージを見た弥生は言葉を失った。腹立たしい!でも子供たちのことを考えると、彼女は何もできない自分にさらに苛立った。彼のこの一言のせいで、「電話してやる!」という気持ちは完全にしぼんだ。電話しても意味がない。どうせ彼は電話一本で子供たち
しばらくして、弥生はようやく声を取り戻した。「......行かなかったの?」博紀は真剣な面持ちでうなずいた。「うん、行きませんでした」その言葉を聞いた弥生は、視線を落とし、黙り込んだ。彼は奈々に恩がある。もし本当に婚約式に行かなかったのだとしたら、それはまるで自分から火の中に飛び込むようなものではないか?でも、行かなかったからといって、何かが変わるわけでもない。「当時は、多くのメディアが現場に詰めかけていました。盛大な婚約式になるだろうと、皆がそう思っていたからです。でも、当の主役のうち一人が、とうとう姿を現さなかったんですよ。その日、江口さんは相当みっともない状態だったと聞いています。婚約式の主役が彼女一人だけになってしまい、面子を潰されたのは彼女個人だけでなく、江口家全体にも及んだそうです。ところが、その現場の写真はほとんどメディアに出回ることはありませんでした。撮影されたものは、すべて削除されたらしくて......裏で何らかのプレッシャーがかかったのかもしれませんね」そこまで聞いて、弥生は少し疑問が浮かんだ。「もしかして......そもそも婚約式なんて最初からなかったんじゃないの?」彼女の中では、瑛介が本当に行かなかったなんて、どうしても信じがたかった。あのとき彼が自分と偽装結婚して、子供まで要らないと言ったのは、心の中に奈々がいたからではなかったのか?それなのに、奈々のほうから無理やり婚約に持ち込もうとして、結局うまくいかなかったって......「最初は、みんなもそうやって疑ってたんですよ。でも、あの日実際に会場にいたメディア関係者の話によると、現場は確かにしっかりと装飾されていて、かなり豪華な式場だったそうです。ただ、どこのメディアも写真を出せなかった。すべて封印されて、もし誰かが漏らしたらクビになるっていう噂まで立っていたんです。でもその後、思いがけないことが起きましてね......たまたま近くを通りかかった一般人が、事情を知らずに会場の様子を何枚か写真に撮ってネットに投稿しちゃったんです。それが一時期、すごい勢いで拡散されたんですけど......すぐに削除されてしまいました」「写真に何が写ってたの?」博紀は噂話を楽しむように笑った。「僕も、その写真を見たんです。ちょうど江口さんが花束を抱え
博紀はにやにやしながら言った。「あれ、社長はまったく気にしていない様でしたけど、ちゃんと聞いていらしたんですね?」彼女は何度か我慢しようとしたが、最終的にはついに堪えきれず、博紀に向かって言い放った。「クビになりたいの?」「いやいや、失礼しました!ちょっと場を和ませようと思って冗談を言っただけですって。だって、反応があったからこそ、ちゃんと聞いてくださってるんだって分かったんですし」弥生の表情がどんどん険しくなっていくのを見て、博紀は慌てて続けた。「続きをお話ししますから」「当時は誰もが二人は婚約するって思ってたんです。だって、婚約の日取りまで出回ってたし、中には業界の人間が婚約パーティーの招待状をSNSにアップしてたんですよ」その話を聞いた弥生の眉が少しひそめられた。「で?」「社長、どうか焦らずに、最後までお聞きください」「その後はさらに多くの人が招待状を受け取って、婚約会場の内部の写真まで流出してきたんです。南市の町が『ついに二人が婚約だ!』って盛り上がってて、当日をみんなが心待ちにしてました。記者が宮崎グループの本社前に集まって、婚約の件を聞こうと待機してたんです。でも、そこで宮崎側がありえない回答をしたんです。『事実無根』、そうはっきりと否定されたんですよ」弥生は目を細めた。「事実無根?」「そうなんです。宮崎さんご本人が直接出てきたわけではありませんが、会社の公式な回答としては、『そんな話は知らない、まったくのデマだ』というものでした」博紀は顎をさすりながら続けた。「でも、あの時点であれだけの噂が飛び交っていたので、その回答を誰も信じようとしなかったんです。その後も噂はさらに加熱していって、会場内部の写真が次々と流出しましたし、江口さんのご友人が彼女とのチャット画面まで晒して、『婚約の話は事実です』なんて証言までしていたんですよ。そのとき、僕がどう考えていたか、社長はわかりますか?」弥生は答えず、ただ静かに博紀を見つめていた。「ね、ちょっと考えてみてください。宮崎さんはあれほどはっきりと否定しているのに、それでもなお婚約の噂が止まらないって、一体どういうことでしょうか。それってもう、江口さんが宮崎さんに『婚約しろ』と無言の圧力をかけているようにしか見えなかったんですよ。皆の前で『私たち婚
もともと弥生の恋愛事情をネタにしていただけだったが、「子供」の話が出た途端に、博紀の注目点は一気に変わった。「社長がお産みになった双子というのは、男の子ですか?それとも女の子ですか?」弥生は無表情で彼を見た。「私じゃなくて、友達の話......」「ええ、そうでしたね、社長の『ご友人』のことですね。それで、そのご友人がお産みになった双子というのは、男の子でしょうか、それとも女の子でしょうか?」「男の子か女の子かって、そんなに大事?」「大事ですよ。やっぱり気になりますから」「......男女の双子よ」「うわ、それなら、もし元ご主人がお子さんを引き取ることに成功したら、息子さんと娘さんの両方が揃ってしまうじゃないですか!」「友達の元夫ね」「そうそう、ご友人の元ご主人のことですね。言い間違えました」「でも瑛介......じゃなくて、社長のご友人は、どうして元ご主人が子供を『奪おうとしている』と考えていらっしゃるのでしょうか?一緒に育てたいという可能性は、お考えにならなかったのですか?」「一緒に育てる?冗談を言わないで。それは絶対に無理」「なんでですか?」博紀は眉を上げて言った。「その元ご主人......いえ、社長のご友人の元ご主人というのは、かなりのやり手なんでしょう?そんな方が一緒に育てるとなれば、むしろお子さんにとっては良いことなのではありませんか?」「いいえ、そんなの嘘よ。ただ奪いたいだけ、奪う」弥生は少し固執するように、最後の言葉を繰り返した。「彼にはもう新しい彼女がいるのよ。協力して育てるなんて全部ありえない。ただ子供を奪いたいだけなの」「新しい彼女?」その言葉を聞いたとき、博紀はようやく核心にたどり着いた気がした。彼はにこやかに言った。「つまり社長はこうお考えなんですね。宮崎さんにはすでに新しいパートナーがいる。だから、彼が子供を奪おうとしているのではないかと。違いますか?」弥生は彼をじっと見つめた。何も答えなかったが、その表情が全てを物語っていた。しかも、彼女自身は気づいていないようだったが、博紀はもう「社長の友達」などとは言わなくなっていた。次の瞬間、彼女は博紀が苦笑いするのを見た。「もし社長がご心配なさっているのがそのことでしたら......気になさらなくて大丈夫ですよ
「うん」瑛介は冷たく一声だけ応えた。「じゃあ、社長......会社に戻りましょうか?仕事が山積みでして、このままだと......」その後の言葉を健司は口にしなかったが、瑛介自身も理解していた。彼は唇の端を真っすぐに引き締め、最後に視線を外して言った。「会社に戻ろう」弥生は地下鉄の駅に入ってしばらくしてから、思わず後ろを振り返った。誰もついてきていないのを確認して、ほっとしたと同時に、心のどこかでほんの少しだけがっかりしている自分に気づいた。だがその淡い感情もすぐに押しやり、弥生は素早く切符を買ってその場を離れた。その後、会社ではずっと気分が上がらず、会議中でさえどこかぼんやりとして、心ここにあらずの状態だった。ぼーっとしながら会議を終えた後、弥生のあとをついて出てきた博紀が、思わず彼女の前に立ちふさがった。「社長、ここ数日、少しご様子がおかしいようですが、大丈夫ですか?」その言葉に弥生は少し立ち止まったが、彼の問いには答えなかった。「社長、何かありましたか?僕でよければお話を伺いますが......」弥生は首を振った。「いいわ。私のことを話したら、きっと明日にはみんなに知れ渡ってるでしょうから」「それはあんまりですよ。確かに僕はゴシップ好きかもしれませんが、口は堅いつもりですよ。もし僕が軽々しく話すような人間なら、今ごろ社長と宮崎さんのことは社内中に広まっているはずでしょう?」そう言われて、弥生は反論できなかった。会社の中で彼女と瑛介のことを知っている人は、実際ほとんどいない。以前、あの新入社員が偶然目撃したのは例外として、それ以外は本当に誰も知らなかった。博紀は確かに噂好きではあるけれど、口は堅い。彼女の悩みを、誰かに相談したい気持ちはずっとあった。年老いた父には、あまり頻繁に頼れないし......博紀の年齢を思い出しながら、弥生は小さく声を出した。「ねえ、もし君が奥さんと離婚したとしたら......」「え?」博紀はすかさず遮った。「『もし』なんてありませんよ。僕はうちの妻と絶対に離婚なんてしませんから!うちはとても仲良しなんですから!」博紀はにっこり笑って言った。「僕からのアドバイスとしては、『友人』の話ということにして切り出されたらいかがでしょうか?」友人
しかし陽平は前に進まず、ためらいがちにその場に立ち尽くしていた。「ひなのはもう車に乗ったわよ。何を心配しているの?ひなのを置いていくわけないでしょう」弥生はそう言って、自ら陽平の手を取り、車の方へと歩き出した。瑛介がひなのを抱き上げて車に乗せた仕草は、確かに弥生の心を揺さぶった。瑛介が子供を連れて行こうとする限り、自分も無視することなどできない。弥生が車に乗り込むのを見届けると、瑛介は薄い唇をゆったりと持ち上げ、柔らかく美しい弧を描いた。しばらくして、ひなのを自分の腕に抱きかかえた。今日は自らハンドルを握ることはなく、運転席には前方に運転手が控えていた。弥生と陽平が乗車したのを見届けると、外で控えていた健司も続いて乗り込んだ。健司が車に乗ってからは、視線が完全に弥生と二人の子供たちに釘付けだった。この二人の子が瑛介の子供だと知ったときは、本当に驚愕した。いつもクールな瑛介の様子からして、彼は一生独身を貫くと思っていたのに、まさか、子供が二人もいたなんて......しかもなにより、未来の社長夫人があまりにも美しすぎる......そんなことを考えていると、健司はふっと冷たい視線が自分の顔に突き刺さるのを感じた。その視線の先をたどると、瑛介の氷のような警告の視線とぶつかった。その目はまるで「弥生をどこ見ているんだ」と無言で告げているような、鋭く研ぎ澄まされた視線だった。健司はとっさに目を逸らすと、「……見てません」と、心の中で慌てふためきながら呟いた。朝食を終えると、瑛介は運転手に二人の子供を学校に送るよう指示した。学校に着くと、弥生はすぐに車を降りた。教師は二人が同じ車から降りてくるのを見て、少し驚いたような目でこちらを見た。昨日の弥生の怒りを見たその教師は、彼女の目を見ることすら恐れていた。きっとまた怒られるのを怖れているのだろう。昨日のことを思い出し、弥生は少し後悔の念にかられた。ちょうど謝ろうとしたそのとき、隣から瑛介の声が聞こえた。「行こう、会社まで送るよ」その一言で、弥生の頭の中の思考は瞬く間にかき消され、冷ややかに口角を引き上げると、彼の提案をきっぱりとはねつけた。「送らなくてもいい、自分で行くわ」瑛介は唇をきゅっと引き結んだ。「歩いて会社に行くつもりか?」「
たとえ弘次が本当に忘れていたとしても、友作が忘れるはずがない。......そう思い、今回の一件だけで弘次のことを疑う気持ちを完全に消すことは、弥生にはできなかった。彼女はソファに身を投げ出し、深く沈み込むようにして目を閉じた。翌朝。瑛介を避けるため、弥生はいつもより30分早く子供たちを連れて家を出た。朝食も外で済ませるつもりだった。彼を避ける完璧な計画だったはずなのに、マンションを出た瞬間、目に飛び込んできたのは、一台のストレッチ・リンカーンだった。その横で、健司が欠伸をかみ殺しながら立っていた。明らかに眠たそうで、ぼんやりしている。弥生が彼を見つけて数秒の間に、健司は連続して二回もあくびをした。三回目のあくびに入ろうとした瞬間、子供を連れて降りてくる弥生を見つけた。途端に眠気も吹き飛び、目が覚めたように弥生の方へ駆け寄ってきた。「霧島さん、おはようございます!」やばい......健司は数歩で彼女の進路を塞ぎ、元気いっぱいに言った。「今日は早いですね!道中、社長にそこまで早く来なくてもいいって言ったんですが、社長はきっと早く降りてくるはずだって......いやあ、さすが社長、読みが鋭いですね」そのとき、瑛介が車から降りてきた。「おじさん!」ひなのは大喜びで彼に向かって駆け出していった。......昨夜、自分と約束した話はもう全部忘れてしまったようだ。瑛介は膝を折り、ひなのを抱き上げた。今日はグレーのロングコートに、ネクタイとスーツを身にまとい、きちんとしていた。その腕の中のひなのは、コートを着ていて、まるでお餅のようにふわふわして可愛らしく、二人の並ぶ姿はとても雰囲気がよく、しかも顔立ちまで似ていた。弥生は目を閉じて、この光景を見ないようにした。「霧島さん、お嬢さんとお坊ちゃん、こんなに早くお出かけとは......まだ朝ごはんはお済みじゃないでしょう?」弥生は何も答えず、唇を固く引き結んだ。健司も彼女の無視に気づき、気まずそうに黙り込んだ。瑛介はひなのを抱いたまま弥生の元に近づき、弥生の隣で少し後ろに下がっている陽平に視線を落とした。そして再び、弥生の顔を見つめた。「朝ごはんを買いましょう」弥生はその場でじっと立ち止まり、冷たい視線で瑛介を見返した。瑛介はその
その言葉を聞いて、弥生は思わずぎょっとした。ひなのがそんなことを思っていたなんて......彼女は少しだけ眉をひそめたが、すぐに表情を緩め、しゃがんでひなのに手招きをした。ひなのは素直に歩み寄ってきて、弥生の胸にすっぽりとおさまった。「ママ」弥生は小声で様子を探るように尋ねた。「さっきの言葉......誰かに教えてもらったの?」ひなのは小さな声で答えた。「誰にも教えてもらってないよ、ママ。ひなのが自分で思ったの。ママ、おうちに帰ってすぐに窓のところに行って、寂しい夜さんを見てたでしょ?」「違うわ。ママはただ......カーテンを閉めに行っただけよ」「でも、ママがカーテンを少しだけ開けて、こっそり覗いてるの、見えちゃったよ?」この子、どうして、いつも瑛介の味方ばかりするの?そう思った弥生は、ひなのの柔らかいほっぺを指でむにっとつまんで、軽くたしなめた。「ひなの、最近ママの言うことに逆らうことが多くなってない?」ひなのの顔は元々もちもちしていて、弥生につままれたことでさらにピンク色に染まり、とても可愛らしかった。ぱちぱちと瞬きをして、純真な声で言った。「でも、ママ......ひなの、ほんとのこと言っただけだよ?」......まあ、まだ五歳だし、言っても通じないかもね。そう思いながらも、弥生は諦めきれず、でも諭すような口調で続けた。「ひなの、ママとお約束できるの?」「どんな約束?」「これからはね、寂しい夜さんの前では、ママが言ったことがすべて正しいって思って、ママと反対のことを言っちゃダメよ」ひなのはすぐに答えなかった。少し不思議そうな顔で訊き返してきた。「ママ、寂しい夜さんのこと......好きじゃないの?」ついに来た、この質問......弥生はすかさずうなずいた。「うん」「じゃあ、寂しい夜さんのことが嫌いなの?」この質問には、すぐには答えられなかった。 「嫌い」と言い切ってしまったら、娘の心にどんな影響があるのかと心配していた。しばらく考えた末、弥生はやさしく問いかけた。「ひなの、最近悠人くんと仲良くしてるでしょ?好き?」「うん、好き!」「じゃあ、前の席にいる男の子は?あの子のことも好き?」ひなのは少し考えて、首を横に振った。「あの